積み木沼とベビーくもん
インスタで見かける「積み木育児」に興味がある。
よく見るプラスチックのおもちゃは押せば鳴る、光る、と確かに一時的に子供の興味を引くけれど、創造的な遊びはできない…と。なるほどなぁ。考えたこともなかった。
幸い、我が家にはプラスチック製のおもちゃは少ないのだけど、何も知らずにいたら何も考えずにこういうおもちゃを買ってしまいそうだった。
決してこういうおもちゃが悪いわけではないけれど、せっかく買うなら良質なおもちゃを買ってあげたいと思うようになった。
それにしても、積み木はとにかく高級品だ。良質な積み木を買い揃えようと思ったら。云十万円というお金が必要になるんだよね。徐々に集めていくしかないなぁ。
で、ベビーくもんに入会した件。
こどもチャレンジと一瞬悩んだけれど、こどもちゃれんじは細々としたおもちゃが多いとのことなので狭小マンションの我が家ではNGだった。
実際にべびーくもんの教材をもらってみて感じたのは「こんな簡単な遊びも思いつかなかった」ということ。
食べ物のイラストを見て食べる真似をするとか、動物の鳴き声をまねるとか、簡単なことなんだけど自分では絶対にやらなかったと思う。そういうことを知れただけでもよかったなぁ。
あとは先生との相性だと思うけど、いずれにせよ私は頑固者なので、先生の熱心さや指導力はあまり関係ないかもしれない。
今月のテーマは「こどもと一緒に楽しむ」こと。
こどもだけが楽しむ、大人だけが楽しむのではなく、両方が楽しんでいるということがポイントらしい。けっこう難しいと思う。
いま考えているのは
・一緒におやつ(離乳食だけど大人も食べれるもの)
・芝生でピクニック(息子は麦茶、大人はお茶)
これくらいしか思いつかない…。もっと考えようっと。
絵本よりも積み木が好き
息子の誤飲事件があり(無事でした)、おかげで躁状態は落ち着いた気がする。
それでも幼稚園のことを気にしていたりモンテッソーリの本を読んだりと興味は継続している。私が教育に関して興味を失ったとしても、育児は毎分毎秒と続くのだからそれについては興味を失うわけにはいかない。息子に対して声かけをしたり、一緒に遊んだり、観察したり…ということは日々積極的に続けていきたいと思う。
とりあえず息子を観察していてわかったことは
- 積み木が好き
- 絵本はまぁまぁ
ということ。ゆる教育ママとしては絵本好きになってほしいけど、まだ8ヶ月の赤ちゃんなのでここで絵本の好き嫌いが決まるわけではないだろうと思っている。
絵本というのは読むタイミングが難しくて、なるべく息子が手持ち無沙汰にしてそうな時を狙って読むことにしている。これまでは他の遊びを中断させて絵本を読んでいたけど、それではモンテッソーリ的にはダメな気がして。ずりばいで部屋の中を探索している時も邪魔したら悪いと思っている。
絵本はちょっと前の方が集中してくれていたような気がするけど、絵本以外に単に興味の幅が広がっただけだと思う。
積み木は毎日何度も手にとっては振り回したり舐めたり追いかけたりしている。積み木以外のものにも同じようなことをするけど、積み木があれば積み木に向かうので好きなんだと思う。それを見るたびに「理系かな?」とつぶやいてる自分がいる。(たぶんちがう)
モンテッソーリを実践している方のブログを読みたいのだけど、はてなだといまいち探しにくい。なぜだ。
育児についていろいろ
タイトルの通り、育児についていろいろと考えていたら疲れてきてしまった。
何かに熱中するとずっとそのことばかり考えてしまう。今回の熱中の対象は息子の教育についてだけど、この先の育児はまだまだ先が長いのでゆっくり考えれば良いのにと客観的に思う自分がいる。
夢中になっている時はだいたい、焦燥感に駆られている。今この瞬間にすべてを学び、理解し、実践しなければ大変なことになるような気持ちで本を読んだり、ネットを調べたり、取り組んだりしてしまう。スピード感はあるけれど、こうして息切れしてしまうので続かない。ちょっとずつ、少しずつでいいじゃないか、自分。
で、読んだ本
大事なコトがなにやらワンサカ書いてあった。メモを取りながらもう一度読みたい。
とりわけ大事なことは「非認知能力」に関する記述だと思ったので、次の本を読むことになった。
個々のレベルの育児書というより、もっと社会的な問題に立ち向かった内容ではあるのだけど、それでも育児において何が子どもにとって大切なのかエビデンス付きで書いてあった。要するに「親はできるだけストレスフリー、かつ子どもとめいっぱい遊べ、語りかけろ」ということだった。
じゃあ具体的にどうしたらいいのというわけで
この本を読んでいる。
モンテッソーリがなんだかさっぱり知らなかったけど、自分が子供にしてあげたかったことはまさにこういうことではないかと感じている。
育児をしていると「私はこの子に適切な接し方をしてやれていないんじゃないか」と思う。こんなダメな母親は自分だけかと思ったけど、調べるとどうやらそうでもないらしい。(あの佐藤ママだって、絵本の読み聞かせを始めるまではそうだったらしい)
育児の不安というより、育児をしている自分が不安なんだね、結局。
今日は通院日
子供を産んでも変わらずに精神科に通い、本当はよくないのだろうけど授乳しながら服薬している。今日は1週間ぶりの通院日だった。息子は義母に預けて、ダッシュで病院に行ってきた。
主治医は私の社会復帰に否定的だけど、当然だと思った。むしろ、働けると思った自分が愚かだ。私はちょっと調子に乗るとすぐに何か特別なことをしようとするし、真面目すぎるので傷病と求職を理由に保育園に入れることが心苦しくて仕方ない。
しかしそんな中、今日は朗報が入った。
求職を理由に保育園を利用している保護者の求職期間が90日間伸びたというのだ。6月末までに就職証明書を提出しないと退園になるところが、9月末まで伸びた。これで正々堂々としばらくは就職をしないで済む。私は傷病も理由としているから就職を急ぐ必要はないのだけど、世間体を気にして傷病のみを理由に保育園に通わせることがいやで仕方ない。だから働きたいけど、求人も減っているいま働くのは難しく、困っていた。肩の荷が軽くなった気分だ。
就職の期限である9月までに私も体調を整えれば、よりスムーズに社会復帰できるかもしれない。その時まで、無理はしないでおこうと思う。
この騒動の中、私は私なりに新しい習慣や心のゆとりを手に入れられたと思う。
GW前から夫が週2、3は休みになったので、家族三人で過ごす時間が増えてとても楽しかった。外出先での出費が減った代わりにネット通販を利用して、いつか買おうと思っていた収納用品を買い、部屋も片付けた。カーテンを洗ったり、床のワックスもかけた。ほんの少しだけど断捨離もした。たくさん食事を作った。新しい店のテイクアウトもした。そして何より、ランニングという新習慣をはじめた。ランニングはまだ7日目だけど、7日も続いていることが嬉しい。大変な状況の中でも、自分の中で幸せな変化を生み出せて良かったと思う。
今日は落ち気味
昨日あたりからまた調子が悪く、昨晩は眠れずにリスパダールを飲んだ。
リスパダールを飲むと5分くらいで脳がとろんとしてきて眠くなる。よく効いてるのだと思う。効果が持続しているのか翌朝も体がだるいのが難点。
赤ちゃんの息子がいても毎日のように暇を感じて憂鬱になるのだから、子どもがいない時はそれはもう落ち込み放題だった。人間が健康的に生きていくためには適度なやる気と、やるべきことが必要だと思う。緊張感がないと鬱になる。
昨日は求人を探していた。
コロナの影響か私の職種も以前と比べて求人数が半減している。このタイミングで就活するのはアンラッキーだけど仕方ない。一般企業の法務で良い条件の仕事を見つけた。条件は良いけれど、やったことのない仕事ができるのか不安だ。別業界に転職する人はこの世にたくさんいると思うし、応募すらしていないので何を言ってるんだと思うけれど。求人情報を見ると月収は30万〜50万とある。だいぶ差があるけど、月収30万なら手取りは23万円ほどだと思うので、共働きで生活していく分には十分だと感じてる。
私の女友達は皆年収が600万円以上ある。たぶん、600万以下は一人もいなくて、多い子では800万くらい。頑張って働いている子ばかりなので、自分もある程度は頑張らなきゃなと思う。
気づけば2年が経っていた
2年のうちに双極性障害は一旦寛解し、司法試験のことは忘れ去り、息子が産まれた。双極性障害は残念ながら再発し、相変わらず鬱と躁の間を行き来している。
とはいえ、子育ては順調だと思う。
夫はこれでもかとういうほど家事育児に協力的で、むしろ協力しているのは私の方な気がする。息子はとんでもなく可愛い。
わたしのことだから産後うつになったり、育児で苛々しまくるかと思いきや、全くそんなことなかった。確かに忙しいし大変だしうまくいかないことや心配なこともあるけど、どれも些細なことと思えるほど息子が可愛いし、日々が楽しい。
躁うつの波を除けばかなり良い感じの毎日を送っていると思う。
心療内科には変わらず通っていて、エビリファイを服用している。授乳中なので本当は避けたほうがいいのだろうけど、背に腹は変えられない。母親である私の笑顔が一番大事だと割り切っている。(と言いつつ、薬は飲んだり飲まなかったり)
子育ての情報はSNSを頼りにしているけれど、本当にいろいろな人がいる。日々の怒涛の情報量に加えて、有益な情報はわずかかもしれないけれど、ついダラダラと見てしまう。SNSを見なくてもいいようになりたい。
最近は、「新たな習慣を身につける」ことを目標にしている。
具体的には「読書」「勉強」「運動」だ。このうち、読書と運動はスタートしていて、勉強はまだ一度もできていない。心療内科の医師にも運動はストレス解消におすすめだと言われているので、最も身に付けたい習慣になっている。
自宅でのすごく簡単な筋トレと、ランニングをメインにしていきたいと思う。ランニングはこれまでの人生で続いたことがなかったので、今度こそ継続するつもりだ。
ランニングが習慣化されたら、何か変わるのかな。
新しい景色がみたい。
そんな最近です。
ぐうたらな日々
ほんの数ヶ月前。
私がまだバリバリと働いていた頃であれば、今の生活は極楽天国のように憧れて、なおかつ一生過ごす予定はありえない無い物ねだりだったと思う。
それが本当にこんな生活になるなんて、露ほども想像していなかった。
私の今の日々は、超最低限の家事だけを行い、他は寝ているか本を読んでいるか映画を観ているかネットを見ているかに限られる。しかもどれもこれも絶妙な中途半端さを伴っている。まさに、ぐうたらな日々だと思う。でも休養しているとも言える。
どこかの骨が折れてギブスを付けていれば他人も優しく、自分も自分を大切にできるようなものだけど、自分が病気であることを目に見えてわかっていないのは何よりも私自身であると思う。骨が折れたように心が折れているのに、目に見えないから自分でもわからないということだ。
いっそ心にギブスをつけたい。
それが朝昼晩就寝前と一日中飲まないといけない薬が代用であると考えてもどうも納得できない。
毎日のぐうたらな日々は一応、医師の指示通りにできるようになった、寛解のための大きな一歩だ。
だけど、どうしても違和感が拭えない。
30年近く「休まず頑張る」「休むのは悪いこと」と思い込んできた私に、ぐうたらな日々は心が痛む。繰り返すけど、本当に心が痛む。
それは私の幼少の頃に植え付けられた苦く間違った認識であって、大人になったいまはどうとでも考えを変えられるはずなのに、うまくいかないから苦しい。
人間の習慣というのもは、すべて小さな習慣の定着からのみにおいてしか変えられないらしい。毎日できるだけぐうたらになるように、小さな習慣から本当にぐうたらになりつつある私は、病気の寛解としては大成功への一歩だとしても、かつての私はどこへ行ってしまうのだろうと不安になる。
いつまでこのぐうたらな日々を続けないといけないのだろうかと心配にもなる。
常に夢を持ち(躁だから)、自分に厳しく(躁だから)、自尊心が弱く自己否定感が強い(これは母の洗脳)、誰かの光になりたかった(これは性分であり長所と短所だと思う)。誰かの光になるためには挑戦することだと全てだと思い込んでい信じていた私はどこへ言ってしまうのだろう。あの女子力よりも漢気溢れる勇んだ私はどこに行ってしまうのだろう。
と言っても本当はわかっている。
寛解というのは本来の私が失われるものではなく、焼酎の水割りのようなもので強すぎるアルコールを飲みやすくするようなこと。つまり生き易くすることだ。
私は失われないし、夢を持ち挑戦することもできる。これからだってきっとできる。
だけど私は、過去のやり方でのみ生きてきたから、新しい手法にこれでもかと怖気付いている。
私は寛解した状態で誰かの光になれるのかな。
そんな無駄なことで悩んだり不安になったりしている。
いろいろな経緯があって、八方美人に生きてきたので、人の評価が気になって仕方ない。だからこそ、自分は〝何者か〟にならないとダメだと信じて生きてきた。
それは立派な地位名誉を持つものでなければなかったし、修行僧のように苦しくもがいた結果でなければならないと思っていた。
それが私の「過去のやり方」だった。
でももっと他のやり方があるという。
寛解した状態は修行僧ではなく、もっとまったりとした、現実的で穏やかな光を生み出すのだと思う。
この状態を目指すことを恐れるのは、私が難関国家資格に合格するための経緯に似ている。
当時の私は「合格すること」が怖かった。
そこへ立ち向かうことができたからこそ、いま私の手元には堂々と合格証書がある。
奇妙なことだけど、あれほど辛い試験に対して「合格すること」が怖かったのは、「変化を恐れていた」からだと思う。
私はその難関国家資格のために何年も時間を費やし、当然だけど毎回落ち続けていた。でもそれは一種の快楽に近い、私にとっての平凡な日々だった。
落ち続ける方が、平凡だった。
そんなの間違えていることは今なら十分にわかるけど、ようするに月並みな私は変化を恐れていた。
その状態といまは同じだと思う。
だから私はこのぐうたらな日々を胸を張って堂々と受け止めていいんだ。
自分を癒し、いっそ抱きしめるかのように私はぐうたらな自分を褒めてあげていいんだ。
今までよく頑張ったねと、少し休んで、またゆっくり頑張ろうね、と。
他の誰でも無い、私自身が強くそのことに立ち向かう必要がある。
ぐうたら自分を責めるのではなく、ましてや生きる価値を見出せないと独り言をいうのでもなく、私は変化を恐れる弱い自分をここに認める。
私は弱い。
だからこそ、ここからまた強くなれるかもしれない。