「脱・Twitter」からはじめよう
この病気になって、真っ先に行ったこと
それはTwitterアプリの消去でした。
私にとって、Twitterほど良くも悪くも〝人と自分を比べるためのツール〟はありません。Instagramも一応やっていますが、Twitterほどではない。
私がこれまでTwitterから得ていたものは、
- 自分より頑張っている人を見ることで活力ゲット
- マウンティングへの対抗心から活力ゲット
- 自分より状況が悪い人を見て「ああはなりたくない」と活力ゲット
…人道的にどうなのという部分には目をつぶっていただくとして、とにかく、なんでもかんでも自分の生きる活力へと繋げていました。
それはなにもTwitterだけには限られません。
大・大・大好きなアーティストの存在でさえ、これまでの全活動をインプット対象として、そこから得たものを自分の人生へとアウトプットしようとする。
具体的な例を挙げるなら、「MCでこんなに素晴らしい名言を語ってくれた!絶対忘れないぞ!」→その名言を終始念頭において出来るだけ全力で実践(生活)する。
みたいな。
いや、良いんですよ、活力を得ることは。
でもエンジンふかしっぱなしだったら、どんな機械でも壊れます。
そのことに気づいたのが、双極性障害という診断と、壊れきった生活という現状を見てのことでした。
常に自分の選択した対象から活力を得ないと生きていけないような強迫観念
人生は選択の連続です。
真面目なんですよね、私たち。
そして自分の選択に自信がないんでしょう。
だから必死に、活力を探す。自分は間違っていないんだと。
たとえそれがわかっていたとしても、何かをして、何かを得ないと、何もしていないことと同じなような気がして、無駄なことのような気がして、どうしても色々なことを純粋に楽しめない。
_頭を空っぽにする。
それが出来ませんでした。
今だってそうかも。病気になった途端、ブログをはじめて。
病気になったことにすら、瞬時に意義を見つけ出そうとしている。
何かを得ようとしている。
常に必死。
それは良いことだけど、疲れますよね。
生き方、模索中であります。